Teardrops of the Tiger

勇気が出るブログ

36歳未経験から『NYC Food Film Festival 2016』でグランプリを受賞するまで――岸田浩和 Hirokazu Kishida(映像記者/ドキュメンタリー監督)

36歳未経験から『NYC Food Film Festival 2016』でグランプリを受賞するまで

岸田浩和 Hirokazu Kishida(映像記者/ドキュメンタリー監督)

 “ビデオグラファー”というスタイル

 岸田浩和さんはテレビ局や制作会社に所属せずに独りで動画を制作するビデオグラファーという新しいスタイルで仕事をしている。フォトグラファーがすべての制作過程を一貫して独りで行うように、映像の撮影は基本的に岸田さん独りで行い、使用する機材は市販されている写真用の一眼レフカメラだ。撮影した動画はパソコンがあれば自分で
編集できる。フリーランスイラストレーターや他の領域の専門家に協力してもらいながら作品を作る。

 GoogleYouTubeの広告などの動画を作る仕事の分量は全体の35~40%。2015年以降に動画の仕事を増やしたが、『弁護士ドットコムニュース』などのWebメディアのライターの仕事も多くしていた。売り上げベースでは70%を占める広告の仕事もやりながらお金を稼ぎつつ、自主制作で作品を作って映画祭に出したりもする。

 現在はメディアやドキュメンタリー制作の講師として複数の大学で登壇する岸田さんだが、36歳までは一般企業のメーカーに勤める会社員だった。カメラも動画も素人だった自分が映像の仕事ができているのは、“変化のタイミングを捉えた”ことが要因のひとつであると分析している。動画の視聴環境は時代とともに変化している。家族全員でお茶の間でテレビを見ていた時代から、テレビ番組もテロップやナレーションを入れるなどの独自の進化をしてきた。スマートフォンで好きな時間に好きなものを選んで動画を視聴できるようになった現代では、コンテンツビジネスは拡大しつつある。動画のトレンドはアメリカで先行し、その1年遅れで日本に入ってくるという。アメリカではドキュメンタリーはコンテンツのひとつとして、ゲームや漫画などと並列のジャンルになっている。岸田さんは変化のときを「これまでになかったやり方が通用するようになる良いチャンス」と捉えた。ライター・記者でドキュメンタリー動画を作る人は日本では珍しい。ビデオグラファーは日本ではまだ確立していない分野だ。そこに張り込んで新しいやり方を見つけたことで、プレーヤーの1人としてうまく潜り込めたのだという。

 バックグラウンド

 岸田さんは1975年に京都市で生まれた。アメリカでベトナム戦争を題材にした映画などが流行った時期に子供時代を過ごす。岸田さんも映画『ランボー』シリーズが大好きだった。高校生時代は戦場カメラマンに憧れた。大学時代は東南アジアや辺境に興味が出てきた。辺境作家でルポライター高野秀行の本の魅力に出会ったのもそのころだ。幻の怪獣ネッシーを探した探検記や、アヘンを作る村のルポタージュなど、危険な取材をして書かれたにもかかわらず高野秀行の本からはシリアスさは感じられない。間違ったフランス語でアフリカ人とお互い変な言葉同士で交渉しているのをシニカルに表現するなど、コミカルでのほほんとした作風が面白かった。“やらせ”的に感じられる表現が多かったそれまでのルポタージュやドキュメンタリーとは違って、高野秀行の表現はリアルだなと思った。

 英語を苦手に感じていた岸田さんは、アジアの言語ならルーツが近いので上達しやすいのではと思い、ミャンマー語の勉強を始めた。「あまり人もいないし面白そう」という好奇心からミャンマー留学をした。ちょうどそのころ、ミャンマー鎖国を解除した直後だった。それまでの鎖国中のミャンマー社会主義国家。鎖国から開けたばかりのミャンマーでは、使用される通貨は国の公定レートと市中レートが400倍も違っていて、混沌とした部分が残されていた。1年半の期間、岸田さんは良い刺激を受けながら留学生活を送り、財産となる経験を得ることができた。

 しかし“バックパッカーの延長戦上”のノリでミャンマー留学はしたものの、その先に明確な目標があったわけではなかった。「海外にも支店がある会社だし、いいかな」とある一般企業に就職した。入社して3年ぐらいすると仕事も一巡する。「部署が変わって2周目3周目……この繰り返しなのか」入社したときは意気揚々としていた岸田さんも不安になってきた。

「俺、なにがしたかったんだっけ……」

毎日を繰り返して10年以上経ったあるとき、岸田さんはぼんやりと自身に問いかけた。

本当にやりたかったことを思い起こしたとき、頭に浮かんだのはルポライターだった。「読者ではなくて、現地に赴いて取材する側に回りたい」と急に思った。「カメラなどの道具を使うわけではない。書き手なら可能性あるのではないか」と思い、宣伝会議の『編集・ライター総合クラス』と『米光講座』を受講した。講座は達成感をもって修了したが、そこで岸田さんは現実に直面する。メディアでの実績のない36歳のライターが、名の知れたメディアにいきなり社員として入れるチャンスは皆無であると気づいたのだ。「このまま会社員にもどるのは嫌だな」という思いは自分自身のなかに明確にあったが、あとが見えない。困り果てた。

 講座修了直後の2011年3月11日、東関東大震災は起きた。「不謹慎な言い方かもしれないけど、僕はチャンスだと思った」。すぐにTwitterで大学の先輩にジャーナリストがいないか探した。被災地の福島県石巻市には、多くの記者が取材に向かっていた。「取材する現場がたくさんあるから、なにかできるのではないか」と考えたのだ。しかし、「素人がカメラをもっていっても、ただのヤジウマ」とも考えた。検索していると「石巻に行きます」とツイートしていた先輩がいるのが見つかった。先輩は『アジアプレス』で働いている。取材に同行させてもらえないか頼んでみると快諾してくれた。それだけでなく、岸田さんが石巻で撮った写真にクレジットを入れて記事に載せてくれたのだ。初めて自分の名前の入った記事が発信されたことに岸田さんは感激しつつ「これを最初の手がかりに、なにかWebメディアで仕事ができないか」と模索を続けていく。一眼レフを使った動画の作り方を知るために、映像のワークショップを探して受講することにした。石巻の取材の合間に撮影していた現地の缶詰屋の動画を編集して課題で出すと、ワークショップの講師に呼ばれた。「これはもったいない」というのである。「一度行っただけでは被災地のことなんて分からないのではないか。何度も通って取材を続けたほうがいい」というのが講師のアドバイスだった。しかし、通うにはお金がかかる。

 そんなとき、友人の働く会社が被災地のインタビューメディア『東北まぐ』を立ち上げるらしいという話を聞いた。副業禁止の会社に務めていた岸田さんは、旅費交通費だけ出してもらえればギャラは要らないので仕事をさせてほしいという交渉をした。土日に被災地に行き、毎月2~3人の被災者のインタビュー記事をメールマガジンで配信するアルバイトをすることになった。メールマガジンの取材で石巻に行くたびに缶詰屋の動画も撮影した。震災から1年が経過した2012年の3月11日まで撮影は続けて、撮り貯めたものを編集してFacebookに投稿してみた。予想外に大きな反響があった。15分ぐらいの作品にまとめて缶詰屋に渡すと、とても感激された。「映画祭にだしてみてはどうですか?」と缶詰屋は1枚のチラシをくれた。それは小さな映画祭のチラシで、作品応募の締め切りは3日後。会社を休んで編集しなおして映画祭に出した。「内容は上手ではなかった」と岸田さんはいう。しかし、津波にほとんどを破壊された震災直後から1年後までを定点観測した映像は他にはなかった。泥まみれで残された缶詰をひとつひとつ拾って洗浄する作業を数ヶ月にも渡って続ける従業員にインタビューを続けていくことで、被災者の心情の変化と被災地のリアルな姿がしっかりと映しだされていた。『缶闘記』と題したその作品はグランプリを受賞した。それから20個の映画祭にエントリーして、5カ国9カ所の映画祭に入選・入賞した。

 『Vice』が好き!から仕事が転がり込むまで

 2014年ごろ、雑誌から派生したWebメディアに動画を載せる流れがアメリカを中心に生まれていた。『Vice』というカナダのモントリオール発祥の雑誌があった。パンク・スケーターがテーマのエッチでマニアックな雑誌だったが、Webメディアの動画では特殊な取材手法が面白かった。戦時下のバグダッドで活動するヘビーメタルバンドの取材を通して戦争を描くなど、独創的なアプローチで映像を作っていた。岸田さんにとっては、大学時代に魅せられた高野秀行の表現をどことなく思い起こさせるものだった。当初は“過激メディア”という扱いを受けていた『Vice』だったが、米国でエミー賞を受賞したことを転機に世界中に多くの支部を置くようになり、大手メディアと肩を並べる存在になった。日本支部の『Vice Japan』では、『極道』というシリーズで右翼に密着して街宣車の中から撮影した映像が新鮮だった。事件現場で当事者の目線から撮影した映像をスタイリッシュにまとめる『Vice』のスタイルに、岸田さんは憧れた。

 同時期の2014年3月、台湾で学生による国会占拠事件が起きた。仕事で現場近くにいる知り合いが、「文化祭のノリでお祭りみたいだ」とFacebookに投稿していた。日本のニュースでは、警察が放水車を出動する騒動ぶりが報じられている。そのギャップに違和感を感じて、とりあえず行ってみることにした。岸田さんにあったのは“『Vice』のようなアプローチで映像を撮りたい”という思いだった。しかし、記者証などはない。入れそうなタイミングをうかがい現場へ上手く入った。2~3週間国会に立てこもる学生たちは歌ったりしていて、本当に文化祭のような雰囲気が実際に味わえた。そのころの日本は、中国との関係に敏感だった。台湾と中国との関係も含めた国際情勢を刺激しないように、日本のメディアはこの国会占拠事件を大きく取り上げていなかった。そこに現れ撮影する岸田さんは歓迎され、現地のローカル局の取材を受けた。台湾・香港の運動家の岸田さんに向けられる眼差しは熱かった。

 撮影した台湾の映像をFacebookで公開していると、香港の運動家からメッセージが入った。香港で反政府デモを行うので取材に来てほしいという。2014年9月末からの『雨傘革命』だ。岸田さんは台湾の映像を『弁護士ドットコムニュース』の知り合いの編集の人にみせて、香港の『雨傘革命』の映像と記事の企画を持ちかけた。その結果、Webメディアで初めて自分の名前を出した実績を作ることができた。

 岸田さんは台湾で取材した内容で作れる動画を3本ぐらいの作品にまとめて2015年1月に『Journalism Innovation Award』に出展した。NHK、フジテレビ、ヤフーニュースといった大手メディアもフリーランスも出展できるイベントだ。動画を扱っている出展者が他になかったので、岸田さんの作品は注目を受けて入賞し、来場していた多くのWebメディアの編集者に名前を覚えてもらうことができた。

 それから憧れの『Vice』の仕事が転がりこんできたのは、思わぬところからだった。東関東大震災後に気仙沼市の病院でボランティアをしていたある医師から連絡があったのだ。この医師は国境なき医師団ミャンマーエイズ患者を治療していた。岸田さんは東北の取材をしていたときから、この医師の東北とミャンマーでの活動をポートフォリオにしたいと考えていて、初期の段階から継続して映像を撮らせてもらっていた。その医師のとても国際医療支援活動をしているようには見えない風貌と破天荒な活動ぶりに『Vice』は興味を示した。岸田さんの映像の存在を知った『Vice』が、映像提供の依頼を医師を通して岸田さんにしたのだった。そこでも岸田さんは映像提供だけで終わらせなかった。「ミャンマーには留学経験があってミャンマー語もできる。映像を撮るのであれば交通費だけもらえればやります」と交渉したのだ。こうして『クレイジードクター』シリーズの映像の仕事を獲得することに成功したのである。そしてその後も『Vice』からは企画提案に声をかけられるようになった。

 未経験からのアプローチ方法

 岸田さんにとって「“待つ”というのは何もしていないに等しい」。米光講座の飲み会に行くと、講座の受講生のライターから、動画のカメラマンを探している会社があるという話を聞いた。紹介された先は、アメリカの大手広告代理店だった。依頼された社内用の映像の撮影はとても喜ばれたが、岸田さんはそれだけでは終わらせなかった。そのころ読んでいたビジネス書で知った“エレベータピッチ”をやってみようと思った。“エレベータピッチ”は、エレベーターに重役の人と乗り合わせて降りるまでの数十秒の間に自分を売り込むというものだ。それには36歳の元会社員の自分が“やりたいこと”だけではなく、“どんなことができるのか”を一目で分かってもらうポートフォリオが必要と考えた。エレベーターに乗り合わせた重役に、A4用紙に自分の作品をまとめたポートフォリオを渡して90秒間でアピールした。「恥ずかしくて勇気が要ったけど、これで音沙汰がなくてもゼロはゼロのままなのでダメージは少ない。よい方法だな」と思った。

 Googleの広告でドキュメンタリー映像の仕事の連絡があったのは、それからしばらく経ってからのことだった。スケジュールが急でできる人がいないのだという。やってみないかと言われた。コマーシャルの経験などなかったが仕事を引き受け、すぐにコマーシャル撮影の経験のある先輩ディレクターに連絡した。「ギャラを僕の倍ぐらいだすので」といって先輩にアシスタントとして撮影現場に入ってもらうように頼んだのだ。やるべきことを先輩にその場で耳打ちしてもらうことで撮影は乗り切ることができた。この1本の実績を得たことで、その後の広告の仕事がやりやすくなった。

 30代半ばで実績もなかった岸田さんは「仕事を得るには正攻法では突破できるはずない」と考えた。「何もやらなければ、そのままずるずると何も起こらずに終わる。とにかくチャンスを見てアプローチした」。横入りしか手段がないからできたことなのだという。映画祭・コンペの入賞歴ができてからは、さらに企画が通りやすくなった。岸田さんはポートフォリオを武器に、アプローチを続けた。一度断られても担当者が変わればリセットされる。「1mmぐらいの隙間を3ヶ月ぐらい狙うみたいなところありますね」。チャンスに敏感になるというよりも、狙った媒体には何度もアプローチするのだという。『Vice』の仕事がしたいと思ったときには、編集長が登壇するイベントを探して参加した。イベント後に編集長と名刺交換をし、企画を提案したいと持ちかけた。「機会があったら送ってよ」とその場では言われたが、当然返事は返ってこない。そこで諦めることなく岸田さんは次のイベントにも参加した。「事前に印象をつけておけば“またコイツきたな”と思われる。向こうも『また遊びにきて』と口を滑らして言ってきたりするから、“来ましたよ”みたいな感じでまた行く」といって笑う。そのときは短期間に連続したチャンスが何度かあったので、最終的には成功した。もちろん毎回上手くいくわけではない。失敗したものもたくさんある。「いきなり行ってもドアは開かないけど、いつかは開くときがある。早くドアを開けるために準備をしていけば、上手くいくときがくるのではないかな」一歩ずつ進んだり戻ったりしながらも、岸田さんはドアをノックしつづけることを止めなかった。

 作品の魅力

 岸田さんを新たな作品を撮り始める行動へと突き動かすのは、いつも「行ってみたい」「見てみたい」という感情だ。「見たことがないものを動画で表現することに価値がある。世の中の大きな課題にも、違う切り口があるのではないか」という視点を常にもって世の中を眺めている。どこかのメディアに出す当てもないが撮りたい作品をとりあえず一つ作ってみて、それを踏み台にして他のメディアで撮らせてもらうというアプローチを繰り返しながら、岸田さんは少しずつ実績を作ってきた。誰かをあばいたり告発したりといった相手を不幸にする作品は作らない。「“なぜその人はそれをやっているのか”という理由を探るのが面白い。自分が理解していなかったところまで引きだせれば成功」なのだという。取材期間は10ヶ月に及ぶこともある。大手メディアであれば打ち切っているレベルだが、岸田さんの場合は興味がある限り取材は続ける。「どこで終了にするかは毎回葛藤があるが、現地の画がないと意味がない。時給換算してみたら70円だったこともある」と笑顔にもみえる引きつった表情で岸田さんは話す。

 2016年に岸田さんは自身で一番大きな賞を受賞した。廃業することを決めた京都の有名料亭『桜田』の最後の100日間を取材した作品『SAKURADA Zen Chef』は、米国ニューヨークで行われた『NYC Food Film Festival 2016』でグランプリを受賞した。店を誰にも継がせることなく閉める理由を、自分なりに探っていくドキュメンタリーなのだという。映像は寺院の石庭や紅葉といった京都の景色から始まる。オーナーで料理人の桜田五十鈴さんの料亭は寺院の奥の小さな小路にある。カメラは27年間繰り返されてきた料亭の日常をひとつずつ映していく。厨房のせわしない映像と色彩豊かで造形も美しい懐石料理を交互に映すことで、凜と張り詰めた“和”の空気感が伝わってくる。ナレーションはない。英語と日本語の字幕のみだ。作品では人の音声が徹底的に排除されている。バックグラウンドに使う音楽にもボーカルは入っていない。重厚な音楽はゆったりと流れるが、緊張感を伝えているかのようでもある。人の音声を排除することで、料理人が鰹節を削る音や石庭の小石を整える音が印象的に感じられる。10分ほどの映像の終盤になると、カメラは雪の降りしきる夜の小路をモノクロで映し出す。ぽつりぽつりと流れる子どものころに聴いたオルゴールのような音楽。モノクロの景色のなかを、小さな街灯の光を反射して銀色に光る雪は、ただ地に舞い降り続ける。「客観的なデータばかりのドキュメンタリーよりも、人の思っていることをエモーショナルに描いたものがトレンドになるのではないかと予想して追求している」という岸田さん。常に戦略をもってアプローチを続けているが、計算高いのとは少し違う。純粋に人と向き合い、その神髄へカメラを向け続けられるからこそ、映し出されるものがある。雪降る夜の小路で最後の客を見送る桜田さんの表情の変化を静かに捉えた映像は、今も私の脳裏に残されたままだ。

『101%のプライド』村田諒太──戦い続けるために必要なものとは

『101%のプライド』村田諒太──戦い続けるために必要なものとは

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」 

 これは英国の俳優・映画監督・コメディアンのチャールズ・チャップリンの名言で、ロンドンオリンピックミドル級金メダリスト・WBA世界ミドル級チャンピオンのボクサー村田諒太(むらた・りょうた)の好きな言葉のひとつだという。2017年10月にWBA世界ミドル級チャンピオンになった村田は、2018年10月にロブ・ブラントにタイトルを奪われた。しかし、2019年7月12日に村田はリベンジに成功し奪われたチャンピオンベルトを取り戻した。「悲劇を喜劇に変えるのは、結局は己次第。戦いを放棄せず逃げずに継続することだ」(『101%のプライド』幻冬舎文庫村田諒太著より)。負けたところであきらめずにリベンジしたから悲劇は喜劇になったのである。

 村田のボクシングスタイル

 村田のボクシングは、接近戦で積極的に打ち合いを挑むファイター型のスタイルだ。相手との距離を詰めてブロックすると同時に打ち返すブロッキング・アタックは、ガードとブロックの技術がなければ相手の攻撃をまともに受けるリスクが上回り危険なだけだ。村田は右ストレートパンチが一番の武器かのように試合の実況ではよく言われているが、それ以上にディフェンス力のあるボクサーなのである。心技体の「心」が弱いのが最大の欠陥だったと村田は過去の自分を記しているが、日本人の平均的な体格からいうと大男のミドル級ボクサー同士が拳に全体重をかけて打ち合うなかで、一歩前に出るディフェンスをしている現在の村田は「心」が弱いとは思えない。

 村田は中学でボクシングを始めて高校・大学とボクシングを続けたが、北京オリンピックの予選落ちをして1度引退している。その理由は、自分のボクシングは海外では通用しないとあきらめたからだという。それまではフットワークで相手との距離をとって中間距離や長距離で戦うボクサースタイル寄りだったが、テクニックを要するこのスタイルでは世界では勝てなかった。「世界で勝つためには世界で通用する自分の強いところで勝負しなければならない」。ブロックとガードで防御を固めつつ早い段階でボディを効かせて相手のスタミナを奪い、中盤以降で勝つ現在の村田のファイター型のスタイルは「我慢の消耗戦」。しかし、フィジカル、パンチ力、スタミナという自分の強みを生かすことができる。2009年に現役復帰の決意を固めてから2012年にロンドンオリンピックで金メダルをとるまでの間に試行錯誤した結果なのである。

ブラント戦2回目 2R2分34秒TKO勝利でリベンジ成功

 試合開始のゴングが鳴った直後から、ブラントは攻撃を仕掛けてくる。様子をうかがうジャブというわけでもなく、ハイペースでコンビネーションを打ってくるブラントの調子は絶好調という印象だ。2018年10月の1回目の対戦では、村田は両腕のガードの隙から顔面にブラントのパンチを結構もらっていたが、今回は相手の拳が入る隙もないぐらいにしっかりとガードを固めている。村田が最初にワンツーを出したのは開始から30秒ほど経ってから。そこから村田はさらに距離を詰めてブラントの攻撃の隙をついて左ボディーを1発入れるが、フットワークで逃げたブラントのあばら骨に当たってはじかれた。距離を保って逃げるブラントを村田は追いながら、上下に打ち分けたワンツーで合間にボディを狙う。

 接近戦になるとリーチの長いブラントのパンチは距離が合いにくい。村田がガードとダッキングでかわすとダメージのあるパンチは実質はそれほどない。2ラウンド目の序盤で、左フック右フックと振ってからドスッという音とともに左ボディーをいれる村田。数秒後にカウンターの右ストレートを受けてブラントはよろめいた。そこから村田のラッシュが始まる。平衡感覚を失ったブラントの目には村田の拳はよく見えていない。コーナーに追いこまれたブラントは、ガードを固めながら体を返そうとする。そこに村田に右ストレートを押し込まれ、左目に左ストレートの追い打ちを受けたブラントは、体をくの字に曲げた姿勢のまま背中からマットへと投げ出された。すぐにスクッと立ち上がり、目の前でカウントするレフリーの指を1本ずつ目を見開いてみている。

 試合再開で会場には歓声が響く。ガードで固めた頭同士を付き合わせた接近戦。村田はブラントのガードの上からも下からも次々とショートのパンチを打ち込んでゆく。突き合わされた村田の体を押し離しながら攻撃するブラントの頭部を、ついに村田の右ストレートが揺らした。直後に左アッパーと右フックを顎に受けてロープ際までよろめいたブラントをレフリーは左腕で抱きかかえ、伸ばした右腕を宙で振り回した。

 今回の村田は気迫から違っていた。ゲスト解説者に呼ばれていたWBAIBF世界バンタム級王者の井上尚弥(いのうえ・なおや)は、「勝因は“勝つ”というそれだけの気持ちですね」とコメントした。

なぜ、村田はあきらめないのか

 チャンピオンベルトを取り戻した村田は涙ぐんでいた。脳裏には過去の敗退の悔しさとつらかったトレーニングの記憶が呼び起こされていて、目の前の成功を掴んだ喜びの涙だと私は思っていた。しかし、村田が勝って涙を流す理由はそれだけではないようである。2度目の挑戦で初めて世界チャンピオンになった瞬間にも、村田は涙を見せた。「役割を果たせた安堵の涙」だったと村田はいう。人の役に立つことで、自分は価値ある人間だということを実感することができる。見方を変えると、他人を利用して自分が満足感を得る行為でもある。苦労して再戦の場を整えてくれた周囲の人たちに恩返しがしたいと村田はそのとき心から思っていた。勝ったことで他者貢献を果たせた幸福感を感じ、流した涙だったのである。

 ボクシングを始めた中学生のころの村田は、練習のつらさから2度ボクシングから逃げた。
「自分が第一優先でやりたいことは何か?」
逃げていた14歳のときに自身にこう問いかけたことで、スパーリングで殴られても面白くて仕方のなかったボクシングに辿り着いた。「自分の気持ちに素直に従うこと。心の満足があるかどうか。心が満たされないものに101%の努力をしても成功しない」というのがそのころからの信念だった。“101%の努力”とは、他の人よりも1%だけ多い努力をするということである。

 「誰かのために──という感謝の気持ちを抱いたときに人には不思議な力が宿る」と村田は言う。村田がオリンピックで金メダル獲得を目指した理由は、「自分が世界一強いことを見せたい」という自己顕示欲からだった。スポーツ選手でオリンピックの金メダルをとる目標を持つことは、それ自体なんの不思議もない。しかし、あきらめる人は圧倒的に多い。村田は金メダル獲得の目標を達成した後もプロで世界チャンピオンを目指し、何度負けてもあきらめなかった。村田が戦い続ける理由は、勝利して流す涙のわけにあるようである。